ブラジルのスポーツ

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ブラジル人のスポーツ好きは、全国に8,000ものスポーツクラブがあることからも分かります。最も人気のあるスポーツと言えば、ブラジルでフッチボール(futebol)と呼ばれるサッカーです。ブラジル人のサッカーに対する情熱は、国内の至る所にあるサッカースタジアムの数とその大きさから推し量ることができます。1950年のワールドカップの会場としてリオ・デ・ジャネイロに建設されたマラカナンサッカー競技場は世界最大で、18万人を収容することができます。
 ブラジル代表チームは、世界で唯一、1958年、1962年、1970年、1994年、2002年のワールドカップで通算5度の優勝を果たしました。

 韓国と日本が共催した2002年ワールドカップでブラジル代表が8年ぶり5回目の優勝を飾りました。5回は史上最多の快挙です。決勝戦は2002年6月30日横浜で行なわれ、強豪ドイツ代表に2-0と快勝しました。0-0で迎えた後半22分、カナリア軍団の10番を背負うエース、ロナウドのシュートが先制点を呼び、さらにその約10分後には、優勝を決定づけるシュートを放ち、ブラジルを優勝に導きました。ロナウドは大会通算で8得点をあげ、得点王に輝きました。ブラジル代表チームの優勝に、ブラジル各地でまた日本でも熱狂的な喜びが沸騰し、全世界に報道されました。

 国内には、マラカナンサッカー競技場の他に、10万人以上を収容できるスタジアムが5つあります。サッカーに特に興味がない人でも、ブラジル人サッカー選手ペレ(エジソン・アランテス・ド・ナシメント)の名は聞いたことがあるでしょう。ペレは、世界のサッカー史上最も有名な選手であり、18年間の選手生活で、1,200以上ものゴールを決めています。プロ選手生活を退いた後は、サッカーを普及させようとアメリカに渡り、ニューヨーク・コスモスで数年間プレーしました。

 バレーボールは男女共に非常にポピュラーなスポーツです。女子チームは1991年度ワールドカップで、また1999年度パン・アメリカンゲームで優勝しました。男子チームは1992年のオリンピックで金メダルを取りました。ビーチバレーでは、女子チームが2001年に4度目の世界チャンピオンになりました。また、2000年のシドニーオリンピックでは、アドリアナベアール&シェルダ組が銀メダルを、サムエル&ピレス組が銅メダルを獲得しました。

 バスケットボールでもブラジルは非常に強いことが認められています。世界選手権で男子チームは2回、女子チームは1回、優勝しています。更に、オリンピックでも何度もすばらしい成績を残していますが、女子チームが1996年に勝ち取ったアトランタオリンピックでの銀メダル、シドニーオリンピックでの銅メダルが輝いています。

 テニスもかなりポピュラーなスポーツです。1987年に男子国別対抗のデビスカップで好成績を収めたのをはじめ、ブラジルのテニス選手は国際的にも活躍しています。グスタヴォ・クエルテンが1997年、2000年と2001年に全仏トーナメントやその他の重要なトーナメントで優勝しました。グスタヴォ・クエルテンは2000年ATP(男子プロテニス選手協会)最終ランキングで1位となりました。

 F1(フォーミュラ・ワン)で、エメルソン・フィッティパルディが次々と勝利を重ね始めた70年代末以来、カーレースがポピュラーとなり、有望な新人が次々と現れました。その中には、3度も世界チャンピオンとなったネルソン・ピケ、1988年、1990年、1991年にF1の国際サーキットで優勝し、1994年5月に亡くなったアイルトン・セナも含まれています。ルーベンス・バリチェッロその他の選手が現在、F1のグランプリに参加しています。
 
ボクシングでも同様に、アルセリーノ・デ・フレイタス(通称ポポ)が世界ボクシング機構(WBO)のSフェザー級世界チャンピオンとなりました。

ブラジルの歴史

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ブラジルの発見と植民

ルトガル人によるブラジルの発見(1484-1497)
 15〜16世紀に、人口がかろうじて100万人に達したイベリア半島の王国ポルトガルは、前方を大西洋に、後方をカスティリア(現在のスペインの一部)に挟まれていました。ムーア人の征服に対抗する数年の戦争が終結し、ポルトガル人の関心は次第に、航海による遠征へと移っていきました。スペインが西回りで東洋への航路を探し求めていたのに対し、ポルトガル人はいわゆる「南回り」と呼ばれる、アフリカの海岸を下るルートを選びました。バスコ・ダ・ガマ率いる船団は1487年に喜望峰に到達し、インド洋を渡り極東への航路を1497年に発見しました。ポルトガルはコロンブスが1492年に西インド諸島を発見する前に、既に大西洋の先に島が存在することを知っており、何度か遠征もしましたが、スペインやイギリス、フランスの野望を出し抜くため、そのことを口外することはしませんでした。ポルトガルのような小国にとって秘密主義でいることこそ、海洋のより強大なライバルに対抗して、海外遠征で得られた富を守る唯一の有効な手段でした。

 1494年にスペインとポルトガル間で締結されたトルデシーリャス条約により、スペインとポルトガルの新大陸の所有をめぐる問題は、カーボ・ベルデの西、子午線370リーグ(1,776km)の位置で南北に線を引き、その東方をポルトガルが、西方をスペインが所有することで解決しました。この想定線は、北極から南極に向かって南米大陸の東方を縦断しており、ブラジルの最初の国境を形成しています。しかし、ブラジルがペドロ・アルヴァレス・カブラルによって正式に発見されたのは、この条約締結から6年後の1500年になってからでした。

本格的な植民は16世紀から
● 最初の植民(1535-1549)
カブラルのブラジル発見により、すぐに他のポルトガル人もブラジルへの探検を試みるようになりました。この探検による一番の収穫は「パウ・ブラジル(Pau-Brasil)」と呼ばれる、赤や紫の染料の原木を発見したことで、後にこの原木の名がブラジルの国名となります。1530年になってようやく、家畜や作物、種などを携えた最初の組織的な植民団が到着、本格的な植民が始まりました。そして北東部に住んでいた少数民族も統合されていきました。1532年、現在のサン・パウロ州の海岸にあるサン・ビセンテが、続いて1549年には、後の総督府が置かれたサルヴァドールが創設されました。その頃のブラジルには先住民であるインディオが分散して住んでいました。温厚で友好的な部族もありましたが、特に奥地には、凶暴で好戦的な種族がいました。

 植民化が進むにつれ、行政機構の設置が必要となってきました。その第一段階として、ポルトガル王室は16世紀半ばに、カピタニアと呼ばれる14の世襲の行政区を定めました。カピタニアのいくつかはポルトガル本国の国土よりも大きなものでした。「ドナターリオス(donatários)」と呼ばれる領主には、自分の領地の防衛と開発が義務付けられました。このカピタニア制度は長く続き、近代ブラジルの基本的な領土区分及び政治基盤に影響を及ぼしています。

ブラジルの気候

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気候は熱帯性気候、亜熱帯性気候、半砂漠型乾燥気候、高地の亜熱帯性気候、温帯性気候の5つに分けられる。

国土の90%は熱帯地域に属しますが、人口の60%以上が、高度や海風や、あるいは南極に影響される寒冷前線などの影響により温暖な地域に住んでいます。気候は熱帯性気候、亜熱帯性気候、半砂漠型乾燥気候、高地の亜熱帯性気候、温帯性気候の5つに分けられます。
 サン・パウロ、ブラジリア、ベロ・オリゾンテのような高原都市は温暖で、平均気温は19℃です。リオ・デ・ジャネイロ、レシッフェ、サルヴァドールのような海岸地帯は、絶え間ない貿易風の影響によって気温が高く、ポルト・アレーグレやクリチーバといったブラジル南部は欧米の気候と似ており、霜が降りたり、冬に気温が零下になることがあります。
 アマゾンというと焼けつくような暑さが一般的なイメージですが、実際に気温が32℃以上になることはそう多くはありません。年間平均気温は22〜26℃、四季を通じて寒暖の差が小さいのです。ブラジルで最も暑い地域は北東部で、5〜11月の乾期には気温はしばしば38℃を上回り、四季を通じての寒暖の差はアマゾン地域よりも大きくなっています。レシッフェからリオ・デ・ジャネイロまでの大西洋地域の平均気温は23〜27℃となっており、ブラジル内陸部の高原地帯の気温はそれより低い18〜21℃です。リオの南部では四季がはっきりしており、気温の変動は大きいものの、平均気温は17〜19℃です。

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